◇ ご挨拶
「考えの種」
近年,高校生の理系離れが目に付きます。更には理科の選択科目における物理離れがひどいように思います。本来,数学や物理は「難しい」→「考えたらわかった」→「おもしろい」という過程を経て魅力を感じていくものです。難しいからこそおもしろい科目だとも言えます。ですからその反面,「難しい」→「考えてもわからない」となってしまうと当然→「つまらない」という結論に達してしまいます。
人は「誰にも教わっていないのに自分で考えてわかった」と思うことがあります。しかし,過去のどこかでその考えになる種が,誰かによって,あるいは何かによって撒かれているのを忘れているだけなのです。何もないところから考えの芽が出ることはありません。ということであれば,理系離れ,物理離れは,それを考える基になる種が撒かれていないことが原因ではないでしょうか。
「頭の悪い優等生教師」
現在では有名大学の人気講師となっている先生で,以前にある予備校で予備校講師として私と共に一時代を過ごした方が,現代の教師には「頭の悪い優等生」が多くて困ると言っていました。自分の先生や参考書から習ったことを忠実に一生懸命覚えてきたから優等生であったろうし,忠実に覚えてきただけだからこそ,その形のまま生徒の前に再現することしかできない教師。確かに,あまりにも多いと感じます。
生徒が「どうしてこうなるのか」という質問をすると,「こういうものなのだから覚えなさい」と叱る教師をよく目にします。しかし,数学や物理は「どうしてそうなるのか」を解き明かすための学問です。結果を覚えてしまったら数学でも物理でもありません。以前に私が在籍していた予備校の講師紹介の欄に,私の口癖として「公式は覚えるな。自分で作れ」と書いてありました。本来,公式というものは,人から与えられるものではなく,いつも同じ計算過程を繰り返しているうちに,その結果を見覚えてしまい,計算しなくても結果がわかるようになってしまったものが公式になるべきなのです。自分がもう省略したいと思う部分を公式として覚えておけば,余分な手間がかからないで済むというだけのものなのです。その意味もわからずに,公式を覚えることから始めてしまうから,公式を忘れてしまったら解けないということになってしまいます。公式として覚えてしまうからだめなのです。初めから公式などないものと思って,意味を考えて解けば忘れることもありません。公式を覚えなくても,意味を考えれば解けるということを知らない学生が多いことにも驚かされます。私が,公式を覚えないで良いと言うと喜ぶ生徒も多いのですが,最近は「公式を覚えないなんて不安です」と言う生徒さえいます。
「ワイズの種まき」
私は悲しいことに自分の教師から何かを学んだという記憶がありません。きっと忘れているだけなのでしょうが。中高生の頃から自分で考えて納得がいかないと飲み込めない性分でしたから,わからない事があると何日も考え続けたり,それでもわからないと大きな本屋さんに行って,それに関連した問題を片っ端から探しては解答を読み,それらに共通した考え方を学んで帰りました。今でもどうしてそうなるのか,どうしてそう考えるべきなのか結論を出さずにはいられませんし,生徒たちにそれを教えずにはいられません。ですからワイズの授業には教えることすべてに理由がついています。数学や物理はその「理由」を考えるのが楽しいのです。今でも私の教師は入試問題です。入試問題の設問の導入から,どう考えてどう解くべきかを学びます。更には,この問題の出題者はこの問題を高校生に解かせることによって何を学ばせたかったのか,それゆえ高校生にどのような解答を書いて欲しかったのかを考えます。ですからワイズの生徒には問題文の行間を読ませたり,設問の「流れ」を考えさせたりもします。こんなことの積み重ねが数学や物理の「種まき」であると考えています。
「頭を育てる心を作る」
さらに,レベルの高い知識を生徒に紹介できるだけでは「生徒を育てる良い教師」とは言えません。生徒は発展途上の人間なのです。同時に心も育てていかなければ,大学受験という試練は乗り越えることができません。私はもう30年近くもの間,教師として毎年試行錯誤を続けてきましたが,やっと最近になって,頭を育てるための心を育てていけるようになってきたような気がします。それを思うと,この仕事はたとえどんなに優秀であろうと,大学生や大学院生にできる仕事ではないと思います。
われわれは数学講師や物理講師である前に,「教師」でなければいけません。私は時々,自分は天から「教育」という使命を与えられたのではないかと思うことがあります。これは「自惚れ」のたぐいではありません。「責任の重さの実感」かもしれません。「教師も人間だから」という言葉をよく耳にするような気がしますが,教師は少なくとも生徒の前では「神様」でなければいけません。生徒が「今,自分の目の前にいるこの人は,間違いなく『人間』のはずだけど,ひょっとすると,この人だけは『神様』かもしれない」と思ってしまうようでなければいけません。けっして私がそうであると言っているのではなく,そうあろうと努力しているだけです。また,教師はどんなに偉そうなことを言うよりも,「人間」としての手本であることが必要です。生徒が教師を見て,「この人のように生きればいいんだ」と思えるのがわかりやすい良い教師だと思います。教師が生徒に必ず教えなければならないのは,「物事に取り組む姿勢」です。それを自分の行動で見せてあげられるのが理想の教師だということになります。少なくとも,生徒の3倍努力して初めて生徒から「先生」と呼ばれる価値があるというのが教師なのです。
「熱意のキャッチボール」
「わかるようになりたい」「できるようになりたい」という生徒がいて,その「期待以上に応えたい」という教師がいる。それが正しい師弟関係であり,ワイズの心地よい生徒と教師の関係だと思います。ちょうど10年前に,私はある小さな塾の教師をしていました。そのとき,生徒と保護者向けの小冊子にこんな文章を書いたことを思い出しました。「教師が熱意をもって教えると,生徒が熱意をもって教わろうとしてくれる。すると教師はもっと熱意をこめて教えたくなる。これが熱意のキャッチボールです」思い起こせば,私は教師になってから今まで,ずっとこのキャッチボールを続けてきました。